そのまんま、何かをあげる代わりに何かをもらう、という言葉です。
わかりやすい例でいうと、労働する代わりにお給料をいただく、というようなことかなと思います。
毎日会社にいって働いてお金をもらえなかったら、さすがに誰でもやめちゃいますよね。
でも、それって当然のことなのでしょうか?
さすがにお仕事のようなことは対価がないと成り立ちませんが、普段の身の回りのことや人間関係などはどうでしょう。
あらゆる物事に対してほとんど何も考えていなかった頃は、なんとなくギブしたものに対して無意識に見返りを当然のものとして求めていたような気がします。
でもこの記事に書いたように、様々なことや自分自身のことを掘り下げて考えていくうちに、だんだん思うことが変わっていきました。
ギブアンドギブのつもりでいいのではないか?
何かをギブしたあとに返ってくるものは相手からではないなと。
まず必ず返ってくると思っているのは自分の満足感です。
自己肯定力も上がる気がします。
つまり自己満足ですね。
いいことをしたら気持ち良くないですか?
例えば困っている人を助けたり、ゴミを拾ったりすると、
「うん、いいことしたな!」と思って気持ち良く1日を送ることができます。
結果的に誰かにとっていいことになっていたらダブルでいいですよね!
私が単純なだけかもしれませんが。笑
あと誰かのために何かをやってあげるとき。
これが1番難しくて、
「せっかくやってあげたのに」
という気持ちが1番芽生えやすい事柄だと思っています。
これも、
「誰かに対してやってあげる」
という気持ちを捨てて
「自分のためにやっている」
と思うようにしています。
誰かのためではあるんだけど、自分のために自分がそれを選択してやっている、という感じです。
分かりづらいですかね?笑
でもそういう風に思っていると、何かをしてあげたい、と思う相手はたくさん与えている人だということに気づきます。
もらうことを求めてばかりの人や、見返りを強く求めていることを感じる人とは、自然と距離を置くようになっていたりします。
例えばAさんとBさんがいたとします。
ふたりそれぞれにギブしたとして、Aさんはお礼を言って喜び、Bさんは無言で立ち去りました。
自然と次回ギブしたいと思うのはAさんになりませんか?
お礼を言わないというのは礼儀がない、ということですが、それは自分に返ってきてしまうのではないでしょうか。
気持ち的にはギブアンドギブでも、結局はギブアンドテイクで成りったっているような感じがしますね。よく分かりません。笑
良いことも悪いことも、全て巡り巡ってどこかで知らないうちにその人に返ってくると思っています。
これは別に何か根拠があるわけではないですが、そうやって思っていると他人のことも気にならないし、自分も幸せな気持ちでいることができます。
究極、というか例外は「親」だと思います。
様々な家庭環境はありますが、私は本当に幸せに家族に囲まれて育ってきました。
こうやっていろいろ考えていると、親の無償の愛とは一体どれだけ大きいのだろう、と思うわけです。
どんなに失礼な態度をとっても我儘にして勝手なことをしても結局は全て包み込んでくれました。
一生のうちにこんなに愛情を注いでくれる人は両親だけだと思います。
そもそも産んでくれたことが奇跡ですよね。
本当にだただた感謝です。感謝しきることなんて絶対にできないでしょう。
今回長々と持論を書きましたが、テニスをやっていると色々と動揺したり、自分のふたつの心と折り合いを付けなければならないことがたくさんありますので、それはまた次回にします。
ではまた。